N1 言語知識(文字・語彙・文法)・読解
(ニュースで)
北川動物園では、連日の猛暑で元気のないペンギンに、せめて気分( )南極を感じてもらおうと氷の塊がプレゼントされました。
(メールの終わりに)
それでは以上の件につき、引き続きご検討いただければ幸いに( )。どうかよろしくお願い申し上げます。
(会社で)
A「あ、その資料はあしたまた使うから、捨てないで( )。」
B「わかった。じゃあ、ファイルに保管するね。」
(会社で)
田中「ねえ、中村くん。もう遅いし、今日はここまでにしようよ。」
中村「そうだね。じゃあ、残りはあした( )。」
田中「うん。またあしたがんばろう。」
中村「山田さんは本当に猫が好きなんだね。今日のバッグも猫の絵柄だし。」
山田「うん。でも、あんまり持ち物が猫柄ばかりなんで、家族から『猫好き( )だろう。』って言われたりする。」
毎年、秋も深まって朝夕の冷え込みが厳しさを増す今時分になると、北の郷里の菩提寺の境内(注2)にある銀杏の巨木のことが気にかかる。
41、その銀杏が老木だから、台風でもきたら大枝が折れやしないかと心配するのではない。今年の落葉はもう終わったか、どうか。まだなら、落葉するまでにあと何日ぐらい間があるだろうか。そう思って42。
その銀杏は大木だから、葉を厚く繁らせていて、秋の黄葉はまことに見事である。それに、落葉の光景も思わず息を呑むほどのものであるらしい。私はまだ見たことがないから、予定が立つようなら、いちど出かけてみてもいいと思っている。けれども、銀杏としても落葉の予測などつくわけがないだろう。
一枚や二枚の落葉なら話は別だが、この銀杏の葉は、短時間で一枚残らず落ちてしまうのだから。
霜が降りたのではないかと思われるほど冷え込みのきつい、かんと晴れ渡った43。裏山から昇る朝日の光芒が、庫裏(注3)の屋根を乗り越えて境内へ降りてくる。
まず、銀杏の一番てっぺんに朝日が当たる。44、暖められた葉が一枚、ひらと枝先を離れて、舞い落ちる。それを合図に、陽を浴びた葉が次から次へと落ちはじめる。ひっきりなしに落ちる。
銀杏は、しばしさわさわという落葉の音に包まれる。まるで分厚いこがね色の衣を足元へ脱ぎ落とすかのように、銀杏はみるみる裸になっていく。
銀杏に訊きたい。今年の落葉は45。
現代、恋愛は、通常は部分でしか他者とかかわり合いをもたない個人にとって、例外的に全人格と全人格とのぶつかりあいを経験する、特別な関係なのであろうか。それとも、「全人格的」というのは幻想で、恋愛もまた互いに自己のある一面を見せあう、部分的関係の一例か。これはもちろん、そのどちらなのか、という問題ではなく、個々の恋愛はこの振幅のどこかにあるということになるだろう。だが、趨勢(注)としては後者の方へと振れてきているのではないだろうか。
これから起こる社会の変化を読みとるのは難しい。しかし、その変化を見極めて将来に対する指針をもたなければ、激しく変化する社会のなかで自分を見失ってしまう。歴史学は、この時代の変化を長い時間のなかにおいて見据え、社会の進む方向を教えてくれる学問である。けっして、過ぎ去った過去を記憶したり、なぞったりする学問ではない。ゆるやかに流れる時代にあっても激動する時代にあっても、歴史学は私たちの行く手(注1)を照らす一条(注2)の光なのだと思う。
昔も今も、才覚というのは一定の軌道から飛び出してゆく能力のことで、みんなにそんな例外的な能力が備わっていたら、そもそも大地にはりつく農業も、分業で成り立つ産業社会も有り得ない。いつの世も、才覚のある者が新しいビジネスを起こしてゆくのは事実だが、それをビジネスとして成立させるのは社員の労働と献身であるし、それがなければ起業者の才覚が活きることもない。
今の世には明るいものは余りに少なく、暗いものは余りに多く見えるが、両者は別個のばらばらではない。絶望と見える対象を嫌ったり恐れたりして目をつぶって、そこを去れば、もう希望とは決して会えない。絶望すべき対象にはしっかと(注1)絶望し、それを克服するために努力し続ければ、それが希望に転化(注2)してゆくのだ。そうだ、希望は絶望の真ん中の、そのどん底に実在しているのだ。
よく知らない人についてどのようにして印象を受けるのであろうか。アッシュの有名な実験を例にして紹介する。誰彼についての印象というものは、与えられる手がかり(情報)の順序によって影響されることを示している。たとえば、「知的な→勤勉な→衝動的な→批判力のある→頑固な→嫉妬深い」の順番である人物の特徴が伝えられると、多少の欠点はあるが、適応的で有能な人物という印象ができる。一方、これとは逆の順番「嫉妬深い→頑固な…→知的な」では、深刻な問題を抱えた人とみなされる。(中略)最初の手がかりが方向づけをし、後に与えられる手がかりはそれに結びつけて解釈されると考えられる。これを初頭効果という。初めに与えられる手がかりが否定的だと後の肯定的な手がかりも胡散臭くみなされてしまう。世に言われるように、「第一印象が肝心」なのである。なお、①この効果はすべての人に見られるわけではなく、むしろ、後の手がかりによい影響を受ける人もあることも指摘されている。あまり創造的でない人、認知の物差しが少ない(見方の次元が少ない)人の場合には、与えられた手がかりを順番に維持しがたく、初めに与えられた手がかりが後に与えられた手がかりによって上書きされてしまい、結果的に初めの手がかりによる印象は薄くなり、②後の手がかりによって印象がつくられやすい(新近効果)。相手が複雑さに強い人かどうかで、伝える情報の順序を操作することによって印象を変えることも可能である。
書を読むという行為が、人間の成長や知的能力の向上に必須のものであることを、かつての社会は経験法則的に理解していたのではないだろうか。素読(注1)などは強制的、修養(注2)的なものではあるが、読書習慣の形成を何よりも重視する教育メソッド(注3)であったことは確かである。しかし、①私たちの世代はどうであろうか。書物というものが映像や音響メディアなどと単純に比較することを許さない必需品であり、読書は基本的な能力であるという確信をいだいてきたものの、近年の社会経済のあり方によって自信を喪いかけていたことは否めないのではなかろうか。
活字以外の表現手段が大きな影響力をもつようになったことを②「時代の流れ」と呼ぶのはいいが、文化の変容があまりにも急激なこと、あるいは一つの有力な文化が別のものに取って代わることは予測しがたい弊害を伴う。活字にもいいところはあるが、書物に特有の楽しみを与えてくれる本、思索の喜びをもたらしてくれる本、人生の支えになるような本が相対的に少なくなったのは、1980年代の半ばごろからで、書店の棚には情報的な本や、映像文化の書籍化をねらった寿命の短いものばかりが目立つようになった。家庭からはスペースの狭さをいいわけに、本棚が姿を消してしまった。
ちょうどそのころから映像文化や活字文化の本質を考えるメディア論が盛んになったが、いまから思えば従来の活字文化が衰弱した場合にどうなるかという洞察力において、いささか欠けるところがなかっただろうか。
現在、不安定化する社会におけるさまざまなリスクが個人を直撃しています。かつてであれば個人の属する集団や組織が、リスクを受け止めるのを支えてくれました。ところが、いまではそのような支えを期待することは難しくなっています。現代における不平等は個人単位で現れるのです。しかもその場合、不安や不満を抱えた人々は、同じような立場に置かれ、似たような思いをもった人々と連帯することが①けっして容易ではありません。外から見れば、どれほど共通の傾向が見られる問題でも、一人ひとりの個人にはどうしても〈私〉の問題に見えてしまうからです。
(中略)
平等化社会を生きる個人は、それぞれが自分の〈私〉の意識をもっています。その意味でいえば、誰一人、他者の意のままにその存在を否定されるほど弱くありません。もし、社会が自分の存在を認めないのなら、逆に、自分もそのような社会を認めないというのが、現代における個人の典型的な自意識といえるでしょう。反面、②そのような個人は自分一人で自己完結できるほどには強くありません。自分が[同類]のうちの一人に過ぎないことを痛いほど自覚している平等化社会の個人は、それゆえに他者をつねに意識せざるをえないのです。
そうだとすれば、一人ひとりに固有な〈私〉にこだわりつつ、それでも自らの不完全性を日々感じている個人にとって、自分の自分らしさを確認するためにも他者が必要なはずです。その場合の他者とは、自分の身の回りにいて、相互に承認を与え合うような他者ばかりでなく、自らに位置と役割を与えてくれる社会もまた、重要な他者にほかなりません。
自然は多種多様の生物群が存在することで、それなりの安定を維持している。そのなかの一種ないし数種を撲滅することは、とりもなおさず全体のバランスをくずす結果になる。複雑な形の自然石が積み重なってできた石垣から、一個ないし数個の石をひきぬいたらどうなるか。影響はたちまち全体におよび、石垣そのものの大規模な崩壊をおこすにちがいない。ちょうどそれとおなじである。しかも自然界の場合、構成それ自体が複雑であるゆえに、影響もいっぺんには表面化しない。ある部分はたちどころに(注1)、べつの部分は長期間をおいたのちに、被害の進行をあらわにしてくる。人間自身の予想もしなかった個所へ、①意表をついた連鎖反応の結果がでてくるのである。Aなる(注2)害虫を除去する目的で、ある薬剤が使用されたとしよう。その目的はたっせられて、Bなる作物が虫害をまぬかれた。しかしその結果、おなじくAによって食い殺されていたCやDの種属が、抑制因子をとりのけられて爆発的に増加し、あらたな害虫となってBにおそいかかる。こういった例が多数あるのである。
殺虫・殺菌の効能をもつ化学薬品が、いったん開発されてこのかたというもの、人間は文字どおりなりふりかまわず(注3)、ひたすらそれへの依存度を増し、つまり量質ともに強大化する方向へつっぱしった。なぜそのようにしなければならなかったのか。最近の日本では、②このことをもいわゆる公害の一種にふくめ、製薬資本の営利主義――すなわち企業の利益のため不必要な薬品を売りまくって乱用をすすめたことが、非難のまとになっている。しかしこれだけで片づけられるほど、事態の本質は単純でないのだ。上のような皮相的(注4)見解でわりきるには、現在の状況はあまりに絶望的である。すでに③最初の出発点からして、人間の文明それ自体のなかに、かく(注5)ならざるをえない必然性がやど(注6)されていた。一企業の責任に帰するには、悲劇の根はいささか深すぎる。
人間が今日のごとく高度文明をきずきえたのは、採集経済から脱して、牧畜さらに農耕という生産手段を発明したからである。それは換言すると、ある特定の土地を、牧場あるいは田畑として使用することである。さらに換言すると、人間の利用目的にかなう家畜・作物によって、それらの土地を独占させることでもある。ほんらいならばそこの土地には、家畜・作物いがいの各種生物が、当然のこととして棲息(注7)していた。人間はそれらの生物群にたいし、害獣・害鳥・害虫あるいは雑草といった汚名を一方的にかぶせ、強引に排除する手段にでた。こうして自然界のバランスがくずれた。いわゆる公害の起原は、工業とともにおきたのではなく、遠く牧畜ないし農耕のはじまりにさかのぼるのである。
現代の若者向けのファッションは、かつての一流デザイナー主導とは異なり、消費者自らの感性で選択するものに変わってきている。
ある衣料専門店では、客の目線に近い若い店員に好きな服をデザインさせて、これまでにない若者向けのファッションを形にしてきた。店内にはいろいろなバリエーションを楽しみたいという客の要望に応えられるように、あらゆるタイプの商品が置かれている。また、一対一で接客することを基本としているため、売り場には多くの店員がいる。悩んでいる客には一時間以上対応することもある。この丁寧さのおかげで、客は喜んで買い物をして、何度も足を運ぶ客となっていく。このような努力を重ねた結果、売り上げを確実に伸ばし、現在ではトップクラスの専門店となっている。
店はがらがらなのに、長期間増収を続けている大手衣料品店がある。
どの店舗も広々としていて、店内が客で混雑することはない。道路もショッピングカートが楽々とすれちがえるほど広く、カートを止めて商品を見ていても邪魔にならない。子供連れでも他の客に気を遣うこともなく買い物ができる。ある店舗が混雑するようになると、近く新店舗を作ってしまうというのだから、驚きだ。
店には多種多様な商品があり、それらはすべてハンガーで壁一面につり下げられている。客は、一目で欲しいものが見つけ出せるので、無駄な時間を費やすことなく買い物を済ませられる。
このような経営スタイルが好評で顧客満足度が高く、増収につながっているのだ。
私もかつて一個の子供であったが、親との「対話」など別にのぞまなかったように思う。もし親の方が「対話」をしかけてきたら、照れくさいような、歯の浮くような(注1)気持がしただろう。少なくとも、中学生のあたりからは、そうであった。私は特別反抗的な子供ではなかったが、親と「対話」などしたって、本当の話はできない、とごく自然に承知していたように思う。
といって、親とのつながりを、まったくのぞんでいなかったわけではない。しかし、それは「対話」などという正面きったもの(注2)ではなく、言葉としてはほとんど意味をなさないような交流があれば、充分だった。つまり、家の中で顔を合わせて、黙って顔をそむけられては、どこかで寂しいような見捨てられたような気持がしたが、「お」「やってるか」ぐらいのやりとりがあれば、①気持は安定していたのである。
それ以上親が気をつかって「このごろ音楽はどんなもんがはやっているんだ?」などと聞いてきたら、無理してるなあ、と思うし、そんな必要ないのになあ、と思うし、答えるのがすごく億劫だったろう、と思う。
親とは通じない部分を、どんどん持つことによって、子供は自分の世界をつくっていくのである。不分明な(注3)ところが多いからといって親が不安におちいることはない、と思う。
「なにを考えているか、なにをしているか分らない」部分が増えていくことで、子供は成長しているのだ。そこへ、いちいち親が首をつっこみ「一緒に悩み、一緒に考えよう」などとすることは、子供にとっては、ひどくわずらわしいことだし、親が加わることで当面の局面はいい方向へ転換するとしても、②長い目で見れば、あまりいい影響を残さない、というように思う。
(中略)
では、どうしたらいいか、というと、原則的には親は子供の内面については、ほうっておくしかないのだ。理解しようとしたり、いわんや(注4)共感しようとしたり一緒に悩もうとしてもむだなのだと思う。
子供との距離が、刻々ひらいていくことに堪えるしかないのだ。そして、その距離をリアルにとらえている親は、子供にとって魅力的だと思う。
そうした親は、子供を理解しようとしたり、一緒に悩もうとしたりしない。そういうことができないことの悲しさ、寂しさ、情けなさを胸におさめて、子供と対する。いわば「他人」として対する。「親切な他人」として対する。そして、その節度を保てるということが、子供への愛情になっている。というような親でありたい、と少なくとも私は思っている。
緑町病院 雇用時健康診断のご案内
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