N1 言語知識(文字・語彙・文法)・読解
店員「アルバイトの太田さんのことなんですが、仕事中におしゃべりが多くて困っているんです。店長から一言( )。」
店長「わかった。後で注意しておくよ。」
田中「明日の食事会、森さんも来るんだよね。私、会うの5年ぶりだよ。」
木村「わたしは仕事で
Q70 犬が嫌いです
夫の実家は、大の犬好きで家の中で放し飼いにしています。しかし私は大の犬嫌い。昔、母が「近づくとかまれる」と言っていたこともあります。犬は見抜いているのでしょう。ほかの人にはキュイーンと甘えるのに私だけには吠えまくります。私はこの実家のものとして失格でしょうか。たかが犬、されど犬。かなりのストレスです。
A70 犬クッキーで手なずける
パブロフの犬という有名な実験がありました。ベルを鳴らして餌を繰り返したら、しまいに犬が、ベルの音を聞いただけで、餌を与えなくてもよだれ(注)を出すようになったというのです。あれを応用します。
ペットショップへ走り、おいしそうな犬用のクッキーを、41。それを夫の実家に行くときは必ず持参し、ポケットに入れておきます。
42あなたが取るべき態度は、吠えられても、動じないってことです。手をひっこめたり、叫び声を上げたり、逃げ腰になったりしちゃいけません。犬に足元を見られます。といって、犬の目をまっすぐ見てはいけません。犬は威嚇されてると思い込むものなんです。この辺、人間の常識は通じませんから、目は合わせない、それが43礼儀作法です。
さて、吠えられても動じず、目をそらしつつ、手のひらに犬クッキーをのせて差し出します。犬の歯が当たらないので、指でつまんでやるよりこわくない。あなたは今後、その犬にあったら必ず犬クッキーをやることにします。それを繰り返すうちに、犬は、あなた、イコール、クッキーってのを学習し、やがて、44でしょう。
以上は、よく吠えるうちの犬に対して、犬嫌いの友人が試みたことです。いまだに友人の顔をみると吠えますが、それはクッキーほしさの吠え声で、もらえばたちまちおとなしくなります。友人もそれがわかってるので、吠えなくなりました。
クッキーをやったら、後は無視します。無理はしません。犬好きがいるように犬嫌いが、45。
何かを学ぶということは、もちろん、問題に答える知識や技術を身につけるという意味もあるけれど、それは実は学ぶことの本質ではない。ぼくらは本や学校で、これまで人が見出してきたさまざまな秩序、筋道を学ぶ。だけどそうやってさまざまな「型」を学ぶことによって、今まで見えていなかった、あるいはぼんやりとしか見えていなかった「型やぶり」なものが見えてくるようになる。つまり、学べば学ぶほど、見えてくる問題は増えるというわけだ。
横西旅館
ご担当者様
11月30日に、貴旅館のホームページから宿泊の予約をした者です。
予約ページによりますと、宿泊の可否についてはメールでご連絡いただけるとのことです。いまだメールをいただいておりません。
予約番号は131130172で、予約した内容は以下の通りです。
宿泊希望日:2013年12月21〜23日(2泊)
人数:3名(大人2名、子供1名)
部屋数:1室(禁煙ルーム)
なお、予約時には夕食の時間は19時にお願いしていましたが、18時に変更してください。
よろしくお願いいたします。
上田真由美
医者、ナース(注)と患者との間の意味のズレやスレ違いは、患者の身体的症状に対する専門的な医学的認識と、患者自身の意味づけとの間に生まれている。医療関係者の課題の一つは、患者自身の身勝手な解釈とそれに基づいた治療行動を再考させて、医学的に求められる治療活動だけに目を向けさせることであろう。つまり、患者の内面にある認識構造の再構成という難しい問題にぶつかるのである。
日記とは限りなく私的な記録であり、読者が存在しないどころか、他人には読まれたくない秘密の表現であるとも言える。
ただ一人だけ、奇妙な読者が存在する。いつでも自由に日記を読むことのできる、日記の筆者である。その読者は筆者とは異なる場に立って、様々な配慮を働かす。万が一日記が盗み読まれたり(注)死後に他人の目に曝されるような事態が発生した場合、こんなことが書かれているのはまずいのではあるまいか、等々と。しかし、これは限りなく私的な記録であるはずの日記にとっては矛盾である。
十年絵を描いてきて、最近になってようやく筆の止めどころがわかってきたかな、と思います。描きすぎずに筆を置くコツが少しずつわかってきた。
最初のうちは、筆が多くなるものなんです。描きたいという気持ちが強いだけに、まだ足りない、まだ足りないという気になって、どんどん描き出してしまう。だけど、それを無理してセーブすることはないと思います。やっぱり、①とことん行ききっちゃったほうがいいんですよ。何事も。
たとえば、空腹のときに腹いっぱい食べて満腹感というものを味わっておかないと、加減というものがわかりません。人間、満腹のことを知っているから、これはまだ五分(注1)、腹八分といったら、この程度だという加減がわかる。一回とことんやってみることで、抑えることや、行き過ぎないことの良さが初めてわかるものですからね。
(中略)
自分が描きたいモチーフそのものと対峙(注2)して、自分の感じたところで筆を進めている分にはいいんですが、客観的にそれを見て、ここが足りない、あそこが足りないと思って描き出してしまうと、止めどころがわからなくなってしまいます。それは、自分がどう見てどう感じたかという気持ちを素直に絵にするということとは違ってくる。②絵を説明してしまうことになる。そうすると、絵がうるさくなります。
客観的な目を持つことも確かに大事なことではあるんですが、見たまま感じたままのストレートな気持ちを解説してはいけないと思うんです。
大方の予想に反して、科学が飛躍的な成果をもたらす現場では、誰もが実生活の中で体験する新鮮な驚きや、たわいのない(注1)思いつきの類いがその起点となっている。むしろ、科学の画期的な発明発見など、限りなく日常的で具体的なものごとが元になっているのである。(中略)
しかし、日ごろの思いつきや驚きと違って、思いついて終わり、驚いただけ、ということにならないところが、要するに科学の特徴である。思いつきや驚きは、新しい確かな「ものの見方」へのきっかけでしかなく、科学とは、それらをとことん洗練する創意工夫の営みにほかならない。実は、創意工夫こそが、歴史上も有数の科学者たちにみられる、かなり一貫した姿勢なのである。
何かに驚いて、それまでは当然だと思っていたことに、少し違った角度から眼差しをむけてみる。それだけでなく、違った角度から見えてきたことを首尾一貫(注2)させ、確かなものにすると、求めても無駄な望みだと決めつけていたことが、あっさりと実現できることに気づく。新鮮な驚き、ささいな思いつき、そして、ちょっとした理解の修正をきっかけに、常識とは少し違った「ものの見方」をしたとき、どこか一面化していた常識そのものがより豊かなものにならないか考えてみる。これが、科学を本当に発展させた人々に共通した姿勢である。
多くの人は、個性の持ち主にあこがれて、できれば見習いたいものだと思いながら、実は一方で「人並み」であることをひそかに求めてもいる。「ひと」からはずれていたり遅れていたりすることは、彼らを極度に不安にする。「同じ」思いを抱いていたことを発見することは、大きな安心を与えるはずであるから、「同じ」思いの通ずる仲間が見つかると、すぐにでも群れようとする。①そういう人間の傾向は、別に、日本人にだけ備わったものというわけでもなく、ほとんど本能的なものとして、多かれ少なかれ誰もが抱えている要素であるといってよい。
にもかかわらず凡庸さ(注1)は、表向き、なぜこれほど忌み嫌われる(注2)のか。それは、おそらく、人間というものの大多数が凡庸な生を生きるほかなく、自分の未来もまたその限界のなかにあることをうすうす知っているのだが、そのことをそう決めつけられることは、自分の生を希望のない確定的なイメージに塗り込めてしまうことであり、それは②個としての価値を否定されてしまうことにつながると感じられるからである。
生きる意欲が現にあるのに、おまえの未来はこのとおり当たり前のものでしかないと規定されることは、未来に向かうものとしてある「生の意欲」の本質的条件を根こそぎにしてしまう。自らが有限な存在であることを大筋ではわきまえつつ、しかもその範囲内に未知の部分を必ずいくらかは残しておく。そこに自らが個であることの確証をかろうじて求めようとするのだ。
音楽に限ったことではないが、芸術、文化などの名で呼ばれるものはどうしても、現実の政治経済や社会生活に関わることがらとは切り離されたものと考えられることが多く、またそうであるがゆえに、価値を持つものとされてきたと言ったほうが良いだろう。近年のように財政状況が悪化するなど、現実生活をめぐる状況が深刻になってくると、こういうものはしばしば不要不急な「無駄」として切り捨てられそうになる。他方で、荒れた世の中をしばし(注1)忘れるためのオアシスのような場所としての意義が叫ばれるようになったりもするのだが、いずれにしてもその音楽を研究している立場のわれわれはしばしば、「この世知辛い(注2)世の中で、そんなことをやっていられるというのはうらやましいことです」などと言われ、①何とも複雑な心境になるのである。
だが、コペルニクスの転回を遂げた(注3)と言っても過言ではない近年の文化研究の進展の中で、政治や社会の話と切り離して文化が論じられるなどということが幻想的である、というより、そのような幻想自体、すでに一定の政治的社会的イデオロギーの刻印を帯びた(注4)ものにほかならないということが明らかにされてきた。今や、音楽研究者の中にも、政治や社会から切り離れた純粋な「音楽そのもの」がどこかに宙(注5)に浮いたような形で存在しているなどと素朴に信じているような人は誰もいないだろう。
音楽研究者に関わる人々の意識も変わり、研究の内実も大きく変わってきているにもかかわらず、むしろ、音楽研究の世界の外側にいる人のほうが、音楽を「純粋」な形で囲い込みたがっているように思われるのは、②皮肉なことだ。社会科学の最先端で議論している人が、音楽の話になったとたんに、30年前の音楽研究に戻ったかのような古典的なデータや図式でものを考えていることが明らかになるような場面に、これまで何度か出会ってきた。歴史学者などが中心になって編んだ領域横断的な論集などで、音楽の部分だけはひどく浮世離れした(注6)古めかしい論文が掲載されており、音楽研究の最近の成果と大きく乖離してしまっているようなこともしばしばある。ここ十数年で、音楽研究者の目に映る音楽の世界もずいぶんと変わっているのに、われわれの発信が不足しているために、その面白さを十分に伝え切れていない、そんな気がするのである。
近年食品問題への関心が高い。その多くは食品の安全性を不安視する声だ。すでに政府は中立の立場で公正に科学的評価を行う機関を設置し、企業も独自の検査や表示を行うなどの対策を始めた結果、以前より安全性は向上していると言える。
しかし残念ながら、まだ消費者の安心感には結びついていない。今後必要なのは、安全なものは安全だと消費者が正しく理解できることではないだろうか。科学的に安全だと判断された食品が、消費者にも安全だと認知されれば消費者の安心につながる。そのためには、提供する側の分かりやすい説明とともに、消費者側もそれを理解するための科学的知識を備える必要があるだろう。
発生した食品事故に対して、適切な対策がとられ、科学的に安全が証明された後も、いつまでもその食品の消費回復が見られないということはよくある。消費者が納得しないのである。
(中略)
安全に関しては、絶対安全ということはあり得ないにしても、コストさえかければ技術的に安全度を上げることが可能である。しかも安全度は多くの場合、科学的に数値として明示できる。しかし安心の場合には、示された客観的な事実に納得するかどうかは、消費者一人一人の主観によっており、これを説得するのは、簡単なことではない。安全を安心に繋げる難しさには、フードシステム(注)に対する消費者の信頼の程度が大きく関係する。消費者と生産者あるいは、政府の間に信頼関係が構築されていれば、安全証明がほぼ同時に安心へと繋がる。
この秘訣を教えてくれたのは、まだ小さかった頃の娘でした。
「外から帰ったら、手を洗いなさい」
「ごちそうさまを言いなさい」
(中略)
どんなに声に威厳を込めたつもりでも、新聞を読みながらだと、まるでだめ。
「お父さんはこう言っているけど、手を洗うっていうのは、別に大事なことじゃないんだな」
きちんと目を見ていないと、子供はたちまちそう判断してしまいます。よそ見をしながら口やかましく繰り返しても、①「ご馳走様」を言うようにはならないのです。
目を見て話すことは、分かり合い、メッセージを伝え、コミュニケーションをよくする秘訣。これは子供に限ったことではありません。仕事でも家庭でも、すべての場において有効です。
大人になると、ぎくしゃくすることは頻繁にあります。
環境も価値観も考え方も違う人たちの集まりである以上、意見が食い違ったり、誤解が生じてトラブルになることは珍しくありません。
「じっくり話し合えば、ちゃんと分かり合える」というのは、僕の見たところ、残念ながら理想論。どちらかが妥協したり、お互いがちょっと意見を曲げたりして合わせているだけで、100%の解決などあり得ないのが現実です。
あげくの果てに(注)「話しても無駄だし、また同じことの繰り返しか」とうんざりし、コミュニケーションをあきらめてしまう――ほうっておくとこんな事態に陥ることも、珍しくはありません。
それでもコミュニケーションをあきらめたくないと思ったとき、僕はこの秘訣を思い出しました。いくら意見が食い違っても、どんなにトラブルが燃え上がっても、必ず相手の目を見て話をするということを。
考え方がまるで合わず、最後まで言い分は平行線をたどるような議論でも、相手の目を見て話し続ければ、不思議なことに相手に尊敬の念が湧いてきます。
たとえ「この人の言っていることは、間違っている!」と思っていても、相手の目を見て聞いていれば、「その人の人間性」に対しては、別の気持ちを抱くようになります。意見は認められなくても、人としては認められるということです。
言い合っても目と目を見詰め合っていれば、不思議な一体感すら生まれます。結果として解決には至らなくても、悪い方向には向かわない。これだけは、何度も試した僕の保証つきです。
疲れていたり、へこんでいたりすると、人は目を見て話すことができません。そして下を向いていればいるほど、良くない事態が悪化します。
さあ、洗い物をしながら大事な話をするのはやめましょう。パソコンから顔を上げて、まっすぐ目を見て話しましょう。
理解できない相手でも、受け入れられない相手でも、この秘訣を知っていれば、②何か別の関係が生まれるはずです。
原口市市民農園 利用者募集案内
市民農園は、小面積の土地を利用して野菜や花作りを楽しむための貸し農園です。野菜や花作りに興味はあるけれど育てる場所がないといった方たちは、市民農園を利用してみませんか。
【対象者】原口市内にお住まいの人または市内にお勤めの人
【利用期間】2014年4月〜2015年3月(最長3年間の継続利用が可能)
【農園の場所・特徴・料金】今回募集する農園は以下の4か所です
| 場所 | 特徴 | 料金/年 | |
|---|---|---|---|
| ① | 原口市東山 | 指導を受けながら、共同で楽しく野菜や花の栽培ができます(栽培する野菜や花は、農園によって決められています)。 | 8,000円 |
| ② | 原口市西川 | 必要に応じて栽培指導を受けられます。種、苗などは各自で準備してください。農具は貸し出します。 | 5,000円 |
| ③ | 原口市三田 | 10㎡を個人で借りて、自由に野菜や花の栽培が楽しめます。種、苗、必要な農具は、各自で準備してください。 | 3,000円 |
| ④ | 原口市池沢 | 50㎡を個人で借りて、じっくり野菜や花の栽培が楽しめます。必要に応じて栽培指導を受けられます。種、苗、必要な農具は、各自で準備してください。農業用大型機械の貸し出しを行っています。 | 5,000円 |
①②③は市街地に近い、比較的利用しやすい場所にあります。④は豊かな自然に囲まれた郊外にあります。③④では栽培指導は行っていません。
【応募方法】往復はがきに、(1)利用を希望する農園の場所、(2)利用者の名前・住所・電話番号を記入し、市役所市民課市民農園係宛に送ってください。希望者が多い場合は抽選になります。
【応募締め切り】2014年3月2日
【問い合わせ先】原口市役所市民課市民農園係 電話:031(389)6930