N1 言語知識(文字・語彙・文法)・読解
A「頂上まで、どのくらいかかりますか。」
B「大人の私で2時間半といった( )でしたから、お子さん連れなら、半日かかるかもしれませんね。」
夫「週末の旅行、このスーツケースでどうかなあ?」
妻「何週間も海外に( )、今度はそんなに大きいスーツケースは要らないんじゃない?」
(インタビューで)
記者<田中監督、優勝おめでとうございます。田中監督ご自身の今のお気持ちを( )。>
監督<はい。優勝できて本当にうれしいです。>
(会社で)
A<X社に行くなら、電話で連絡してから行ったら。>
B<いや、X社の担当者が
前略 ご無沙汰していますが、お変わりありませんか。
こちらは元気でやっています。
先にハガキでお知らせしたとおり、三月に引っ越しをしました。大阪にくることがあればぜひ立ち寄ってください。積もる話もあるので、泊まりがけで来てもらえるなら、なお歓迎します。
さて、お送り下アモン.デユール∐の、『ウルフ.シデイ』ハ、大学時代に41借りたもののはずです。長い間、どうもありがとう。二十年以上も借りてしまって、申し訳ない。
[なくしたと思ってCDで買い直した]ということのありませんように。
引っ越し後に整理をしていたら、人様(注1)から借りたままの本やレコードがぼろぼろと出てきて猛省(注2)し、順に持ち主へ返還していっているのです。
42[ある筈なのに見当 足らない本]が少なからずあって、それを誰に貸したか思い出すのに一苦労しています。君のように、借りた本をきちんと返す人は珍しいわけです。
君に43、たった一つ。五年ほど前、神戸で会った時、[ホテルに財布を忘れてきた]と言うから貸した一万円だけか。44会っていないんですね。年をとると、時間がたつのが早くて驚きます。
ともあれ、遠からぬ来訪(注3)を待っています。神戸で盛り上がった話の続きでも45。
では、また連絡ください。奥さんによろしく。 草々
二00四年五月十六日
野間亜門様
有栖川有栖
人間は、目の前のものやできごとを、自分の目だけで見ているとか、感じているとかというように思うかもしれないが、実際には,頭の中では、同時に記憶の中から同じような情報を引っ張り出して、素早く比較検討しているのだ。
つまり、勘がいいとか,察しがいいというのは、目で見たこと、聞いたことだけでものごとを判断しているわけではなく、想像力が発達しているということになる。脳の記憶をいかにうまく使いこなしているかという差が表れてくるのだ。
(株)中田清掃社
総務課 田山 広 様
毎度、お引き立ていただきありがとうございます。
さて、11月5日にご注文いただきました品を、本日、添付の納品明細書通り発送いたしました。
なお、「床用洗剤クリーン」につきましては,誠に申し訳ございませんが、在庫不足のため、50箱のみの発送とさせていただきました。未発送分は入荷次第(2週間後の予定)発送いたします。本日発送の商品が到着しましたら、大変お手数をおかけしますが、一緒にお送りした品物受取書に押印のうえ、返信用封筒にてお送りくださるようお願い申し上げます。
添付書類:納品明細書(写し)1通
(株)キイト
営業課長 佐川 明人
専門家・研究者やマスコミには、ごみの問題や斜面林や里山などの破壊といった身近な環境問題を重視せず、いくつかの代表的な環境問題ばかりを取り扱う傾向が強い。マスコミなどが注目する環境問題に取り組んでいることが、専門家の専門性を誇示し、専門家としてのステータスを維持させることにつながっているかのように見える。環境問題が話題性の高いものに特化されることは、日常的な環境問題が大部分の専門家・研究者から無視され、放置されることになる。
人は一人では生きられない。よほどの変人か仙人のような人でなければ、人は世の中と無関係には生きられない。しかも,その世の中というものは固定されたものではなく,ものすごい速さで形を変えていて,それにいちいち適応していくのには,体力も技術も精神力も要る。そんな化け物のような世の中から自分を守るために,一人きりで孤高の城に籠城すれば、やがて孤独に自滅する。その矛盾をどうしていったらいいのだろう。
正直なことをいうと、成人した人々の集まりであるNHK文化センターで、美術史の話をするのは、最初はかなり疑わしい気分だった。というのは、多かれ少なかれ社会に出たり、家庭を持ったりした経験があって、それなりの見識なり専門なりを持っている人々が、いまさら“役にも立たぬ”過去の芸術に、それほど深い興味を持つだろうなどとは思えなかったからである。また、仮に持ったとしても、それは、自分の好みに合った美術品を、楽しんで眺める、といった種類のものかと思っていた。ところが、それが大変な間違いだということがわかった。
ひたひたと押し寄せてくる、にせものでない、深い興味が近頃の大学生にこそ見つけることのできないものであった。はたちになるやならずの若者たちは、多くの場合、単位をとるためにそこにいるのであって、どこまで心からきょうみを抱いてそこにいるのか全く疑わしい。(中略)市民講座の熱心さは、かつて、喜びもなく学生時代を過ごしてしまった人々の、いわばノスタルジーの場合なのであろうか。失われて初めて、その喜びを知ったというわけなのか。私はそう思うようになった。
ところが、それもまた、間違いだということがわかった。1年と数カ月講座を続けた今は、あることがわかったのである。つまり、芸術は、子供には“わからない”ということである。芸術とは、人生の経験であり、憧れであり、また失望と悲哀である。一片の絵にも、人生が詰まっている。人生を生きていないものに、絵がわかるわけがない。もちろん、若者でも、ある程度はわかる。しかし、本当に深くわかるのは、すでに生きた人々である。
8月上旬、地下1階に用意された大型保温テントに66箱の段ボールが運びこまれた。ここに置いた6本のボンベから、濃度60%の二酸化炭素ガスが流し込まれた。
段ボールの中身は、個人や団体が所蔵していた1930〜40年代の和紙製の書籍や小冊子だ。同図書館資料保存課の中島尚子さんは「室温25度、濃度60%で2週間燻蒸すると、成虫はもちろん、目に見えない卵まで駆除できます」と話す。
同図書館の書庫の大半は閉架で、見学者以外の一般人は立ち入る機会がない。これまで虫食い被害は数件しかなく、外部からの害虫の侵入はあまり警戒されてこなかったという。
ところが、2006年に館内一斉調査をすると、過去に古書店から購入した和紙の巻物2本が、保管ケース内で繁殖した甲虫の一種「シバンムシ」の幼虫に食べられているのが見つかった。
07年には書庫内でカビが発生し、数千冊の本に被害が出た。カビは本そのものを傷めるだけでなく、虫の餌にもなる。
調査の結果、外部から持ち込まれる本や、ホコリに付着した虫やカビが、図書館内で増殖する可能性があることがわかった。
これまでも、虫が見つかった本を取り出し、化学薬品で駆除してきた。二酸化炭素は人や環境への影響も少なく、低費用で済む。書庫に入れる前に、段ボールごと一斉駆除できるのが最大のメリットという。
同図書館は、こうしたノウハウをホームページや論文で国内外に紹介している。
文章を書こうとすると、私たちの心の闇に一つの言葉が光る。その言葉がおぼろげな内容を象徴していて、そこから次の言葉が生まれる気配が感じられる。紙の上にその言葉を書きとめてみる。その言葉によってはじめて自分が何を書こうとしているかが、わかりはじめるのだ。“①混沌からことばへ”とはこの場面を指している。人間の言葉が本当に生きているのはここである。
わたしは、ペンが書いてゆくにつれて考える。「考える」とは、音声にならない言葉をひとりごとのように口の中で言うことだ。その言葉をペンが書き留める。書きとめた言葉がさらに次の思考を呼ぶ。これが文章表現の「現場」だ。
文章を書いた経験をふりかえれば、だれでも思いあたることだが、書き上げた文章は必ず、自分がはじめに漠然と予感していた内容とは違ったものになっている。心の闇に一つ二つで危うく連なって光っていた言葉が漠然と象徴していた内容と、複雑な思考を経て言葉の秩序によって組織され他人にも理解されるようになった文章との違いが、そう感じさせるのだ。
私たちは自分の考えたことを文章に表現しようとすることによって、実際には、考えていた以上のことをその表現された文章の内に発見する。これが文章表現における発見である。書かれた内容(世界)についての発見も、それは自分の中から出てきたという驚き。言葉を書くことは、言葉によって、世界を知り自分を知るという二つの驚きを同時に経験することである。
ここで大切なのは、とりわけ科学の意義と限界をしっかりと見定めて、人間的知の全体をほんとうに見渡しうる哲学的知の立場を我がものとすることにある。というのは、科学的知は、二つの限界を持ち、その限界内でしか意義を持たないからである。
一つには、科学的知は、対象を突き放して、第三者的立場で、自分に関わりのない客観的事象として眺め、しかも、必ずそのつど、特定の観点からだけ対象を扱い、自分が関心を持つ側面だけを取り上げ、それ以外の局面を捨象し、決して対象の全体を見ようとはしないのである。だから、科学が進むと、細分化が必至となり、隣の研究室でやっていることが、お互いにほとんど分からなくなる。専門化と特殊化が、科学の運命であり、いかに学際化が叫ばれても、根本的には①この傾向には歯止めが利かない。それはちょうど、近代的病院で、病気を扱う諸部門が、外科や内科等々として、細かく分かれ、人間全体を扱ってくれる部署が存在しないのと、同様である。
二つには、科学的知は、対象を、自分と無関係な事柄として扱う客観性がその特色をなしているので、そこでは、私たちが、自己として、主体的に決断して実践的に生きてゆく行為の問題を、本質的に扱うことができないのである。というのも、ある状況のなかで、いかに生きるべきかをよく考えて、決断し、行為してゆくためには、来し方行く末をよく熟慮して、もはや無い過去と、いまだ無い将来とを視野に収めながら、現在の状況のなかに突き入ってゆかねばならない。しかし、そのような無いものを視野に収めながら、記憶と期待の熱い思いを抱きつつ行為することは、知覚的に有る現在の事実に検証されることによってのみ確実性を得ようとする科学の実証性とは、まったく別個の事柄だからである。客観的な事実確認のみを大事と考える科学の次元と、人生の岐路に立って、右すべきか左すべきかに思い悩む行為者の立場とは、別個の事柄である。②科学は、いかに生きるべきかという後者の問題を、本質的に扱うことができないのである。
したがって、科学とは別に、存在の全体を視野に収め、世界のあり方の原理的全体を考慮して、世界観の知を育むと同時に、そのなかで、人間はいかに生きるべきであるのかという、人間の主体的な行為の根本を考究して、人生観の知を形成するところに、哲学的な知の本質的な成立根拠があることになる。哲学が愛し求める真実の知とは、こうした人生観・世界観の根本的知にほかならない。
アートを買うか買わないか。その後もコレクションし続けるか、止めてしまうのか。
いずれも最初の一点をうまく買えるかどうか、そしてその最初の作品が、自分にとって後々までも価値あるものかどうかで決まってくると思います。
勿論ここでいう価値とは単純な市場価値だけではなく、求めた人にとって、飽きずに長い間付き合い続けられる魅力のことを指しています。この自己満足の部分が大きくないと、なかなか次の一点に手が伸びにくいのではないでしょうか。
アートは大好きだけれど作品を買うほどではないと最初は思っていても、一度購入してみれば、後は堰(注1)を切ったように買い続けてしまったコレクターの方達を身近に何人も見ています。
真にアートの価値が分かるようになるためには、やはり、買うというステップに至らないといけないと思う。実際に買って自分のものにしてこそ、本当にわかってくるものだ。自分がお金を出して手に入れたものだからこそ、愛着も出てくるだろうし、身近において毎日みていることで、いろんな刺激を受けていくはずだ。
(中略)
数千円にしろ、数万円にしろ、いくらかのお金を出して買うんだから、それに見合うだけのものかどうかをしっかり吟味すること。ギャラリー(注2)で作品と対峙(注3)して、この絵、おもしろいな、とか 好きだなと心を動かされる作品に出会えたら、さらに、どうして自分はこれが好きなのか、一歩踏み込んでその理由を考えてみること。
大切なのは、自分にとって、これは充分な価値のあるものだと思えるような、自分自身の基準を持つということである。
眺めていると、東京の空には意外にたくさんの鳥が飛んでいる。カラスやスズメばかりではない。カモメもいるし、僕には種類のよくわからない鳥もいる。それらは町や人家に「適応」した都市鳥ではなく、野生の鳥である。そのような鳥が、コンクリートのビルの上を何事もないように飛び、何の屈託もなくビルの一角にとまる。まるで森や林の木々の枝にとまるように。
(中略)
ツバメが人家の軒先に巣をつくるのは、スズメを避けるためだということを明らかにした研究がある。スズメはふだんはあまり人間を恐れないが、ひなを育てるときは人間を避ける。だから、人がひんぱんに出入りする店先などには巣をかけない。ツバメはそれを利用する。そういう店先の軒に巣をつくれば、嫌なスズメはやってこない。昔、ツバメがたくさん巣をかけると、店は繁盛するといわれた。話は逆であって、繁盛している店にツバメが集まってくるのである。
今、大都市にはツバメがめっきりすくなくなった。かつてのように、どの通りを歩いていても、子育てのために餌を持ち帰るツバメが飛び交う姿は見られなくなった。おそらくツバメたちは、町そのもののつくりや、人間の存在が嫌いになったのではないだろう。町が人工的にきれいになりすぎて、餌にする虫があまりにも減ってしまったので、町ではひなも育てられなくなったから、都会には棲ま(注1)なくなったのである。
こういう事例を見ていると、自然保護とか自然との共生ということについて、少し考え直す必要があるのではないか、という気がしてくる。
多くの動物たちはわれわれが思っていたよりもずっとしたたかである。自分たちの生活の基盤になる条件さえそろっていれば、たとえその条件が人工のものであろうとも、そしてそこをたくさんの人間がうろうろしていようとも、平気で棲みついてしまう。カラスやツバメのように、人間がいることをむしろ利用しているものだって、けっして少ないとはいえない。都市周辺で急速に増えつつあるタヌキやキツネもその例である。人間がいるおかげで豊富な食物がたやすく手にはいるようになった。命がけで食物を探す必要はなくなったのだ。
けれど、都市化によってツバメは餌を失った。モンシロチョウ(注2)は日なたを失った。そうなったら出ていく他はない。
水面に浮いて生活するアメンボ(注3)は、水が汚かろうと富栄養化(注4)していようと一向にかまわない。彼らにとって重要なのは、水の表面張力だけである。たとえ化学的に無害な物質によってでも、水の表面張力が低下すれば、彼らは溺れてしまう。
やたらと動物たちに遠慮することはないのかもしれないが、それぞれの動物にとってのこのキー・ポイントは侵してはならない。
| 名前 | 職業 | 応募作品 | 提出可能なもの |
|---|---|---|---|
| 山田 | 小学生 | 帽子のようにかぶれる雨傘 | 試作品とイラスト |
| 鈴木 | 高校教師 | 片手で簡単に開けられる缶切り | アイデアのメモ |
| チェン | 会社員 | ふたがあけやすくこぼれにくい水筒 | 試作品 |
| 川村 | 大学生 | 片手で楽に入力できるキーボード | イラスト |
生活便利化協会
2012「生活を便利にする機器・道具」コンテスト
募集案内
1・部門・参加資格
開発部門
企業、高校生以上の一般市民を対象に、生活を便利にするオリジナルな機器を募集します。
アイデア部門(特定課題と自由課題)
中学生以上の一般市民を対象に、便利な道具のアイデアを募集します。
特定課題:片手で簡単に操作できる道具のアイデア
自由課題:「生活を便利にする道具」に関するアイデアで、特定課題に該当しないものなら何でもかまいません。
2・応募
応募方法
開発部門の応募には、機器の実物の動きや使い方がわかるような動画が必要です。
アイデア部門の応募には、アイデアが具体的にイメージできるようなイラストが必要です.応募はすべて生活便利化協会のホームページ(http://www.benrika.com/)からいってください。.応募フォームに必要事項を記入の上、必要なものを添付して送信してください。.応募フォームに添付できないものは郵送してください(送付先はホームページ参照)。
応募期間 2012年6月15日――7月15日
3・選考方法
開発部門は、独創性のほか、実用性、有効性、コストパフォーマンスを基準に審査します.一次審査は実物の動画を含めた書類審査、二次審査は模型および書類審査です。
4・発表・表彰
2012年8月にホームページ上で入賞作品を公表し、応募者にも結果を通知します。
開発部門の入賞作品は、「2012生活便利化フォーラム東京」で表彰・展示され、デモンストレーションも行われます。アイデア部門の入賞作品は,同フォーラムで表彰され、試作品が展示されます。